友呂岐神社

友呂岐神社由緒

 当社は康正二年(1456年)後土門天皇北ノ小路新邸をこの地に造営し南に鎮護神として八幡宮を祀り北に南無阿彌堂の伽藍を建設せられたと古書にあります。
 その後畠山義就と畠山政長はこの地で戦い兵火の為に社殿は焼失したが、この八幡宮が当社の始めであります。
 その跡地に小社を建て、氏神として祀っていたが又も兵火の為に焼失した。
 天正五年(1577年)8月この地の人々は社殿を再建し氏神として崇拝し、近隣の人々は祈願所として諸々の願い事をし参詣していたという。
 寛永年間に改築し元禄初年に修築、昭和49年に改築していますが、御本殿は古色豊かに、色彩を止め時代を物語っています。
 明治43年元の若山神社(三井神社)元の二本松神社(田井神社)元の太間神社が八幡神社に合併し、この地の地名をとって友呂岐神社と改称し現在に至っています。
 元の若山神社は延喜元年(901年)菅公が左遷のとき、此の地を通過の折三井本法寺(本巌寺)に宿舎して寺僧と親交厚く、菅公が筑紫で薨去し給いしを知りこの地の人と議り壮観なる社殿を造営して若山に祀り氏神とした。
 建武年中に後醍醐天皇が吉野よりこの地に駕籠給う時、宿舎を本法寺に定め菅公の社殿に御参詣になり萬壽殿の三字の勅額を賜ったと伝えられる、又元和元年(1615年)徳川家康の武運長久と五穀豊穣、悪魔退散を祈願すると共に、その年の吉凶を占う為に正月八日八つ時(午後2時)に御弓式行事を行い、近郊の人々は恩恵を受ける為に参詣していたという、この行事は今尚続いている。
 又二本松神社は菅公左遷の時この地を通過の折、手植の松が記念となり、樹下に一社を建て菅公の霊を祀って氏神とした。
 そして元の太間神社は創建年代不詳。仁徳天皇の十一年(383年)寝屋川市の淀川左岸・太間地区の茨田堤構築に貢献した故事により茨田連衫子(まんだむらじころもこ)を当地に昔から小社を建てて祀っていたという。
 以上の歴史の変遷を経て、現在は誉田別尊(応神天皇、厄除け・安産の八幡様)・菅原道真公(学問の天神様)・茨田連衫子(土木建築の神様)の3柱を御祀りしております。
 また、境内摂社の成願稲荷社に倉稲魂神が鎮座しております。